荻窪地域史講座2024開講中!

荻窪loverのみなさん、お集まりください。2023年度に引き続き、今年も荻窪の地域史深掘りを楽しみましょう。路地から路地へ、暗渠の蓋を踏み締め、荻窪の謎を解き明かして行きます。今年度は荻窪のまちをくまなく歩き回ります。

 1回だけの参加も歓迎です。

 



2024413

1回荻窪地域史講座2024 

荻窪の旧道・高井戸道たかいどみちを歩く

主催:すぎなみ文化協会

 

1 高井戸道起点 大踏切

明治大正時代の地誌を記録編纂した『東京府豊多摩郡誌』(大正5年・1916)の「井荻村」の項に

高井戸道 青梅街道大字おおあざ下荻窪地内荻窪停車場の東方より起り、忍川橋を渡り、南進して高井戸村に入り、甲州街道にごうす、延長一里あまり

と記されている。

 

2 旧高井戸道起点

 中田村右衛門家は代々、下荻窪村の名主を務めた家柄で、通常は認められない武家長屋門を建てることを許された。江戸時代の終わり(1847年)に邸内の東北角地に庚申塚が建てられ、現存している。庚申塚は村の境界や分岐点に建てられたことが多いから、ここがかつての高井戸道の分岐点=起点だったと思われる。庚申塔は各地に残るが、塚(目印のための土盛り)が築造時のままの姿で残るのは大変貴重。

 

3 旧高井戸道の名残り

 旧高井戸道は中田村右衛門邸の角で青梅街道から分かれて、S字型に大きく屈曲しながら南下した。この屈曲部の一部が残存している。この辺り一帯は昭和初期の区画整理で大幅な改変を受けたが、なぜこの部分が残ったかは不明。

 

4 成田道なりたみち分岐

荻窪川南在住の郷土史家・都筑勝三郎さんの地図によると、高井戸道から分かれて成宗、田端方面へ行く道を成田道と呼んでいたらしい。現在の「成田東」「成田西」という住居表示は昭和37年の住居表示法により新たに作られた表示名であるが、それ以前から「成田」という呼び名があったようだ。入澤達吉は明治40年ごろ田端田圃の北側に別荘地を購入したが、荻窪駅から別荘まで通うのにこの道を利用した。現在の荻外荘通りはまだなかった。

 

5 天理教会

「今の荻窪保健所の向かいに天理教の荻窪教会があった。1024日、天理教では中山教祖が死んだ日で、大祭があった。教会にはたくさん人が来てお参りに来た人に竹の皮で包んだおこわをあげたりした。裕福な信者が米を寄付した。戦前はこの辺りは天理教が非常に盛んで、私も子供の頃母と一緒に毎日朝晩通ったからお祈りの言葉は今でも言える。」(都筑修治さん)

 

6 荻窪高校周辺

昭和10年杉並高等家政女学校創立。この頃女学校の運動場で大相撲の巡業があり、全盛期の双葉山も来たという話が残っている。のちに校舎増設で道路の付け替えが行われた。正門はバス通り側にあり、校門前に英泉堂文具店、ほてい屋染物店、星川写真館などが並び、ちょっと奥まったところに普茶料理の料亭「桃山」があって近衞文麿も接待に使っていたという。バス通りはコンクリートで舗装されていたため「コンクリート道路」と呼ばれていた。

 

7 不動堂旧在地

『新編武蔵風土記稿』(1830年完成)「多磨郡 野方領 下荻窪村」の項に

「不動堂 除地じょち168坪 村の東北のかたにあり 不動と云う文字を梵字ぼんじもてえりし石標あり 今は堂を廃せり」とあるが、これが現在の不動堂内の石標にあたるか否か不明。石標は大正末ごろまでここに存在したが、区画整理で中道寺の北側に移転した。石標の正面には「南無妙法蓮華経 不動明王 下荻久保村 別当中道寺」の文字が刻され、梵字はない。側面に宝暦6年(1756)の銘がある。

 

8 忍川橋旧在地

 

9 仲丸金物店

「昔は何をするにも荷車(リヤカー)ひとつでやった。うちは金物屋だが、商品の仕入れも神田で仕入れてリヤカーでここまで人力で運んでいた。うちの前のバス通りは坂になっているが、昔は砂利道で「押し屋」が待機していて、リヤカーが通るたびに押すのを手伝って手間賃を稼いでいた。バス通り沿いにはうちの金物屋の他に材木店や瓦屋、工務店など、建築関係の店が多かった。それだけ仕事があったという事だ。」(仲丸泰次さん)

 

10  川南マーケット

1970年代に始まった拡幅工事前の環8を通るバス通りは非常ににぎやかな商店街だった。特に交差点東南角にあった川南マーケットは狭い敷地に20数店舗がひしめき、大繁盛した。マーケット内の片隅に俳優修行時代の丹波哲郎がパチンコ屋を開いていた。

 

11  春日道分岐

区画整理前、高井戸道から五日市街道沿いの春日神社へ通じる春日道の分岐点。東北角地に春日屋文具店があった。(3ページの地図参照)

 

12  交番、郵便局、火の見櫓

郵便局横に交番、道の向かいに火の見櫓があり、バス停の名も「火の見下」だった。近くに住んでいた与謝野晶子が

半鐘の立つたかさにて雲雀ひばり鳴く荻窪町のうらを歩めば

と歌った。(昭和8年『冬柏』)

 

13  不動堂

大正末ごろの区画整理の際、川北から移された石標を安置。移転当初は簡素な屋根が架けられただけであったが、昭和52年(1977)信者から浄財を募り現在のお堂が再建された。

 

14  中道寺

正式名称は大光山千葉院中道寺といい、開創は天正10年(1582)、開山は大光院日道、以降四十世続いている。本尊は木造日蓮上人坐像、通称「黒目の祖師」と呼ばれている。現在の本堂は昭和35年(1960)建立。鐘楼門は安永2年(1772)建立。梵鐘は寛保2年(1742)銘だったが戦時中金属供出され現在行方不明。この梵鐘不在の間、鐘楼の風倒防止のために吊り下げたコンクリート製重しが残っている。

 

15  区画整理跡と界堀さかいほり

界堀は江戸時代、下荻窪村と田端村の境界線上を流れていた水路。地形的には小河川の形状をなしているが、水流がない。この川の上流部は名前がない(仮称・松庵川と呼ぶ人もいる)。川を遡行すると現在吉祥女子中・高学校の建つ窪地が源頭部となっている。川は西荻、宮前地域を蛇行して流れ、柳窪で大きくターンして北上し善福寺川に注いでいた。

 

16  高井戸東4丁目 高井戸境 新田街道 流路変更

高井戸東4丁目交差点は高井戸道と新田街道(現・神明通り 大宮前新田の北側境界線)の交差点である。同時にここは下荻窪村、田端村、上高井戸村、大宮前新田の4村が接する地点でもあった。昔の人はこの辺り一帯を高井戸境と呼んだ。

ここは界堀の始発点でもある。大宮前新田地内を流れてきた水流は柳窪と呼ばれた低湿地を形成していたが、区画整理に合わせて、高井戸町内で新田街道沿いに流路を開削する治水事業が行われ、流路が変更され、洪水被害も減った。

 


参考までにこれまでのチラシです。


※お問合せ、受講申込みは村田(080-5644-2592 kurumimura@icloud.com)まで